本堂拝観

深いご縁を頂き、日本画家 畠中 光享氏に本堂余間に平成10年「仏説霊鷲山(ぶっせつりょうじゅせん)」、平成12年に「寂静阿弥陀経説法趾」、襖絵を描いて頂きました。
先生は、京都造形芸術大学教授であり、真宗大谷派浄宗寺住職であります。 1999年2月、2000年3月、憧れのインド仏跡(霊鷲山、祇園精舎等)に一緒に巡拝させて頂きました。
先生のテーマは、仏伝を描くことであり、「絵を描くことは、生きていく私への問いである。」と常々言われております。
お釈迦様は、二千五百年以前、ルンビニー(ネパール)にお生まれになり、クシナガラ(インド)にて80年の生涯を終えられました。
浄土教においては、霊鷲山にて「大無量寿経」、「観無量寿経」を説かれ、祇園精舎にて「阿弥陀経」を説かれたとされています。
そしてこのことが苦悩多き私達に「ただ念仏だけで救われる」という教えを明らかにされました。
襖絵を通して遥かなるインドの聖地を思い、「今現在説法」の釈迦弥陀に、そして仏法に遇うご縁となれば幸いであります。

                               浄満寺第二十一世 住職 渡邉 眞理  

 


「仏説霊鷲山」   畠中 光享 氏  1998年(平成10年)  211×458cm

「仏説霊鷲山」畠中光享氏

 

釈尊は常に霊鷲山にありと言われていたほどに霊鷲山(グリドゥ・ラクタ)滞住が多かった。
そのためそこで当然多くの経が説かれている。
「法華経」や「般若経」もそうであるが、私たち浄土門にとって重要な「大無量寿経」と「観無量寿経」もこの地で説かれている。
インドの多くの仏跡はアレクサンダー・カンニガム等、ヨーロッパ人探検家によって発見されているが、霊鷲山やその眼下に広がる王舎城(ラージャ・グリハ)は、1903年西本願寺大谷光瑞師の探検隊によって決死の思いで発見されている。
光瑞師は、中央アジア探検で有名であるが、その探検の根元は、漢訳でしか残っていない、「観無量寿経」の原本(パーリーやサンスクリット語本)を求めての探検であった。
「観無量寿経」の出だしは王舎城の悲劇から始まり、原本がインドで書かれたことは間違いないのだが、未だパーリーやサンスクリット原本は発見されていない。
 霊鷲山が、発見された当時は、虎や毒蛇の棲息地であったというが、今日でもその面影を残している。
霊鷲山は堆積岩の傾斜隆起によって成るが、それが長年の風化で露出し、一つの岩が鷲の形をしているのでそう名づけられている。
その中心地に現在は煉瓦づくりの基壇のみが残り、そこが釈尊止住の香堂趾とされている。
霊鷲山頂から眼下が一望され、叢林の展望の向こうには五つの山が囲んで見える。
この五山にはそれぞれに精舎があって、仏教行学が行われていたという。
そのことに習って、中国天台五山や京都や鎌倉の五山が定められた。
 霊鷲山からの展望はまことに素晴らしく、特に落陽の頃は阿弥陀浄土への憧憬を感じさせる。

(文 畠中光享氏)

 

「寂静阿弥陀経説法趾」   畠中 光享 氏  2000年(平成12年)  210×372cm

「寂静阿弥陀経説法趾」畠中光享氏

 

「阿弥陀経」の出だしは「如是我聞、一時仏、在舎衛国、祇樹給孤独園、・・・・」という句である。
祇園精舎とは祇樹給孤独園精舎の略で、祇陀太子の樹林と給孤独長者の園を合わせて尊称したものである。
 釈尊の在世中にコーサラ国の都シュラブァスティ(舎衛城)にスダッタという長者がいて常に孤独な者や貧しい者に慈善を施すので給孤独長者と尊称されていた。
スダッタ長者はマガダ国の竹林精舎で釈尊の説法を聞いてからすっかり釈尊に傾倒し、私財をなげうって精舎の建設に着手しようとしていた。
たまたま都の西に美しいマンゴー樹林があったが、そこは王子であるジュータ(祇陀)太子の林園であった。
スダッタは太子に買収の交渉を計るが、応じてくれなかった。
それでも諦めずに懇願していると、太子が黄金を敷き詰めたならば売っても良いと冗談に言ってしまった。
スダッタがそこに黄金を敷き詰め始めたことで、太子もスダッタの熱意に感動し、樹園を寄付することになった。
二人の友情と協力によって祇園精舎はできたと伝えられている。
現在仏跡中でも祇園精舎趾は最も仏跡らしい静寂な地である。今は遺跡公園として美しく保護されている。
その中には釈尊が住まわれていた香堂趾や釈尊が使用されていたとされる井戸まで残っている。
広い祇園精舎の遺跡の最も東南側に、煉瓦の基壇が一基だけ残っており「阿弥陀経説法趾」と伝えられているところがひっそりとある。
日本の巡礼者はほとんどと言ってよいほど気付かない場所である。ある時、台湾の尼僧の参拝団が念仏を唱えて常行三昧を長らく行っていたのが印象深い。
この静かな場所で「阿弥陀経」を説かれた姿を観想するとさらにありがたさが込み上げてくる。祇園精舎趾の東側から北東方向に、草木の生い茂る土塁となったところが見える。
その中が舎衛城趾であり、現在少しずつ発掘されている。

(文 畠中光享氏)

 

「祇園香堂趾」   畠中 光享 氏  2000年(平成12年)  175×67cm

「祇園香堂趾」畠中光享氏

 

出家者は托鉢でもって食べ物を得なければならなかった。
教団の出家者が増えると、それだけの人数の食を得るには都市の近くに居住を余儀なくされた。
「阿弥陀経」は舎衛国の祇樹給孤独園に1,250人の悟りをひらいた比丘がいた時に、というくだりから始まっている。
祇園精舎趾は、今でも仏跡らしさを残している。
私が最初、26年も前にこの地を訪れた時は、それこそ静寂の地であり、釈迦存住を実感した場所である。
遺跡は広く、多くの基壇の遺構が残っているが、この絵の場所は釈尊が住まわれていたという香堂であり、最も神聖視された場所である。
巡礼者は必ずここで礼拝や瞑想をする。あがり口のところに小奉献塔があり、南伝仏教徒はそれに金箔を押して供養している。
夕刻の荘厳な香堂趾を描きたかった。
祇園精舎遺構には、私たちにとって最も縁のある「阿弥陀経」説法跡と伝えられているところがある。
それはあまり知られてはいないが、香堂趾の南東に位置するところにひっそりとある。
ある時、中国(台湾)の尼僧の参拝団が、念仏を唱えて常行三昧を長らく行っていたのが印象深い。
ここは個人的にも私にとってある理由で大切な場所であるが、この場所で「阿弥陀経」を説かれた姿を観想すると、さらにありがたさが込み上げてくる。


(文 畠中光享氏)

                     

 

 
「雲中散華」   畠中 光享 氏  2003年(平成15年)

「雲中散華」畠中光享氏

 

「雲中散華(うんちゅうさんげ)」といい、左右四枚ずつの組み絵になっており、白い雲と金箔の空、蓮の花びらが描かれています。
金箔は「光」に象徴される阿弥陀仏を表現したもので、花びらは、まるで空を舞っているように描かれています。

 


●「澄空蓮池図」   畠中 光享 氏  2005年(平成17年) 80×785cm

「澄空蓮池図」畠中光享氏

 

阿弥陀如来像を挟む左右の余間に、蓮の花々が咲きにおう様子を描いた一対の日本画「澄空蓮池図(ちょうくうれんちず)」。
左右の一対を合わせた大きさが、縦0.8メートル、横7.85メートルでほぼ畳四枚分。
描かれた20以上の蓮のはなは、透明感みなぎる明るい色彩で、参拝者の目をひきます。
「蓮」と「仏教」は深い関係があり、お釈迦さまが説かれた『阿弥陀経』のなかには、このように見事に美しく飾られ表現されています。
「極楽の池の中には車輪ぐらいの大きさの蓮華が咲いている。その青い華からは青い光が、黄色の華からは黄の光が、赤い華からは赤い光が、
白い華からは白い光が発せられ、それぞれが美しく清らかな香りを漂わせている。」と。
汚れた泥の中からでも美しい花を開く蓮。
お釈迦さまが亡くなられて以来、蓮の花は、お釈迦さまの誕生の象徴として、数限りないほど、彫刻や絵画で表現されてきました。
蓮のようにどんなに汚れた世界であってもそれぞれ一人一人が美しい花を咲かせたいものです。

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